【倉常寺の石仏】 江戸時代の中頃になると幕府の財政は苦しくなり、八代将軍の徳川吉宗は、年貢の収入を増やすことにより財政の建て直しを図ることを目的に、各地で積極的な新田開発を進めました。 しかし、新田開発を行えるような地域は、江戸時代の初期に概ね手が付けられてしまっており、この時代には開発に多額の費用を要する沼地の干拓などに限られる場合が多かったのです。大島新田も、かつては安戸沼または倉松沼と呼ばれた広大な沼地でした。 この新田開発にあたったのが、江戸の柳橋の商人だった大島清兵衛です。清兵衛は、付廻堀の開削、囲堤、掘上げ田、排水路の伏越しなどの特殊な技法により沼地の開発に成功しました。後に彼の名をとり、大島新田と呼ばれるようになりました。 清兵衛は、元文3年に亡くなりましたが、その50回忌にあたる天明7年に墓標を建て、村民がその偉功を偲んで冥福を祈りました。その後も6月8日(現在は7月8日)の命日には、「清兵衛八日」という行事が行われています。
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